読書案内:14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで

この本を手に取ったときには、作家による文芸論が書かれた作品だと思っていた。

しかし実際には、ディスレクシア(読字障害)の中学生が本を執筆した経験を描いた内容だった。
ディスレクシアという障害の存在は知っていたものの、その特性や当事者が抱える困難について理解を深めるよい機会となった。
また、合理的配慮について考えさせられた。誰もが幸福を追求できるよう、一人ひとりの生きづらさや障壁を取り除く仕組みを社会が備え、変化し続けることの大切さを感じた。


読み書き障害の調査によると、小中学校の35人学級に平均2人は学習障害の疑いがある。学習障害は知的障害ではないので、特別支援学校に行く必要はない。

(症状・傾向)
読み障害であるなら、数学で計算問題はできるのに、文章問題は解けない。
教科書に書かれている文章の読解に特に問題はないが、初めて見る文章に関してだけ点が取れていない。
読み書き障害であるなら、さっとメモが取れなかったり、読めなかったり。
読むのが得意であるにもかかわらず、手書きするのが苦手であった。
読んでいる文字が何なのかわかるが、白紙に文字を書くことができない。
宿題を異常なまでにやりたがらない。
いくら漢字を練習しても覚えられない。
喋っていても特に思考力や知能に違和感を覚えることはないのに、読み書きだけが以上に稚拙に思える。

(障害への対応)
障害に対して、障害は本人の特性で、それはその人の所属する社会に適合できていない本人の変化によって適合させる考え方と、「障害」を個人の落ち度や問題と考えず、社会から障害となる要因を排除する対応する考え方とある。障害を排除する方法として、個人の工夫(従来の読み書きに代わるIT機器の使用等)と社会のインフラ(合理的配慮・教師陣の理解等)がある。

「当たり前のことを当たり前にこなす」のは美徳であるが、その当たり前ができないことによって、どれだけの精神的なプレッシャーがかかっている。

「なんで勉強ができないのか、読み書きができないのか」と本人を責めないでほしい。
アドバイスは、子どもから求められたときだけ、アドバイスをしてほしい。

読書案内:自分で考え 自分で話せる 子供を育てる 哲学レッスン

以前に読んだオードリー・タンの3つのCを説明してくれている内容を思い出しながら、読んだ。
3つのCは、「正解が一つではない複雑な問題」に対処するときに効果を発する。
また、「真理はあなたたちを自由にする」という聖書の言葉が出てくる。何から自由になれるのかと、何とは、なんとなく、自律的でない追随型、同調型の自分とか、自分を認めてほしいと思う気持ちからの自由で、自分の最適解を導き出せる方法や自分を信じられるようになるという意味なのかしらん。

 

哲学対話は3つの思考力を鍛えていく必要がある。
明らかに奇妙で偏った意見に対して、質問したり、反例や反論を出したりする検討することができる。
哲学的なレベルで対話することで、問いを掘り下げることができる、自由になれる。

「真理はあなたたちを自由にする」とは聖書の言葉。
自分の本当の問いに答えを見つけたものは、その問いが発生している葛藤から自由になる。問いは自分がある考えに囚われていることから生まれています。その問いに答えることで、自分を縛っている発想の枠組みを相対化して、自由になることができます。
人に無理矢理に同調しているような人間関係は、幸福な人間関係ではなく、その状態を続ければ、いずれはその友人たちを嫌うようになっていく。


〇批判的思考
説明(言葉を定義しているか、意味を定義しているか)、根拠づけ(根拠や理由が正しく挙げられているか、反例が出せたか)、分析(複雑なものを要素へ分析できたか、比較や対照を行ったか、適切に問題を分類したか、カテゴリーを適切に使えたか)、論理性(論理的な展開ができたか、演繹や帰納を適切に行ったか、論理的な反論や批判ができたか)、反省性(自分の考えを議論のなかで点検したり、修正したりしたか)。

〇創造的思考
新しい考えを出せたか、仮説を立てられたか、他の可能性や代替案を提示できたか、想像や比喩、架空の事例を思いついたか、アイデアを展開できたか。

〇ケア的思考
議論している内容の価値を理解しているか、他人の反論や疑問を尊重できたか、自分以外の立場の視点に立てたか、自分や他の生徒の感情に配慮できていたか、自分の発言が他の生徒に及ぼす影響に意識を向けられたか、グループ全体での議論の成果に目を向けられていたか、他人の発言やグループの議論を展開したり、深めようとしたりしたか、他人の発言を適切に評価できたか。

もう少し掘り下げます。
批判的な思考とは、常識や既存の考え方も含めて情報を鵜吞みにすることをやめ、ある考え方の真偽や妥当性を検討してみる態度のこと。
誰かが、私たちに自分で吟味する機会を与えずにただ信じ込ませたいと思うことがらを易々と受け入れてしまうことを避けるため。自覚することの難しい自分の信念や思い込みを検討するため。

次の創造的思考とは、新しいものを生み出す思考のことです。創造的に考える人たちは、自分の頭で考えている人たちであり、大勢の人たちが考えに安易に同調しない独立心があります。創造的思考は、人を刺激し、人にも新しい考えを思いつかせます。
創造的であるには、絶えず新しい不審と不確実性を求め、何かをさらに進めよう、何かを生み出そうという態度をとっているときにこそ活性する。

最後のケア的思考とは、2つの意味があり、一つは気遣いをもって自分の思考の主題を考える(行うことの価値を与える)という意味、もう一つは、思考の方法について関心を持つこと、自分の態度が相手にどう影響するか(行うことによりどのような変化を与えるか)、です。
ケアは、物事を丁寧に調べたり、物事どうしの関係性を発見したり創造したり、他の行動の選択肢を思いついたり、問題を調べて解決法を見つけたりするような認知的な作用として機能します。


哲学対話では、問いに答える前に、まず問いを吟味して、真正のものにします。それは、問いの前提にさかのぼり、問いを発している根本的な思考の枠組みを明るみに出すことです。それは同時に、社会の「常識」や慣習を検討しなおすことでもあるのです。
「学校の規則は誰が決めたのですか」という問いは、その人が本当に問いたい問いではないかもしれません。
真正の問いは「なぜ、コレコレの規則は守るべきなのか」であり、「変な規則にも従わなければならないのか」という問いになる。

中高年の男性なのですが、彼らは他人の話を聞いて自分を点検しようとか、変容しようとかいう気持ちが少なく、その逆に、その場にいるみんなに自分を認めてほしいという気持ちでいっぱいです。ですから、自分が尊敬している著者の本からたくさん引用し、覚えてきた知識を披露して一方的に自分の言いたいことを長々と話し続けます。今ある自分の姿を認めてほしいので、自分を変えることになる「聞く」という態度ができずにいます。

自分で道徳的な問題について考えてみることをせずに、その場の流れや権威にやすやすと追随する人間は、決して道徳的たりえないでしょう。なぜなら、自律的な道徳性の追求が欠けているからです。素直で従順なだけの人間が、実は判断力と反省力に欠けた大衆として、ときにいかに不道徳な行動をするか、私たちは多くの例を知っています。

読書案内:メモ活

「今日はどんなことが起きたのか。それに対して、自分はどんなことを思ったのか。何かアクションを起こしたのか。これからどうしようと考えたのか。」という文章にはっとさせられた。
私は、自分がどう行動したのかの部分への振り返りの意識が足りず、それがいつも流されるままに生きている感じる原因なのかもしれない。最近、自分で計画を立てて、それを実現したときのうれしさに気付いた。たぶん、どんな行動をしたかが、満足感と直結するのではないかと思う。
朝に、昨日起きたことを書くことを日課としている。出来事のほかに、さらにどんな気持ちであったかまでは書くこともある。ただ、残念ながら、次はどうしようとか、どうすればよかったというところまで思慮が回っていない。

メモを活かすことが本当は難しいのかもしれない。書いたあとに、振り返りが、どうありたいまで想像できる人が強い人だと思う。

 

メモで、うっかりを防げないか、仕事のスピードを上げられないか、アイデアが出せるようにならないか。メモを素早くとれるようにならないか、メモを仕事に活かせないか、、、

今日はどんなことが起きたのか。それに対して、自分はどんなことを思ったのか。何かアクションを起こしたのか。これからどうしようと考えたのか。

とにかく「なんでもメモ」をとるのです。聞いたことや、見たこと、思いついたこと、感じたこと、思い出したこと、やらないといけないこと、やろうと思っていること、、、。忘れてしまう。だから、メモをとる。

書きっぱなしにしない。商談のメモを残したのなら、帰りの電車の中や会社に戻ってから、メモしきれなかった部分を思い出して追記しておくことです。また、仕事の手順を自分用のマニュアルに整理してみたり、どこに仕事の課題があったか、難しさがあったか、などもメモしておくと次の機会に活かすことができます。

自分がうまくいっている姿を、徹底的にイメージしなさい。自分はどんなことをやりたいか。どんなところに行きたいか。ワクワクできることはどんなことか。飛び上がらんばかりにうれしくなることは、どういうことか。

〇工夫・活用
自分で時間のコントロールをする。席で行う仕事もスケジュールに加えることで、自分の時間は本当はいつ空いているのか、コントロールできなくなるのです。

企画は「課題」と「解決法」で発想していく。そもそも企画の目的は、企画することではない。企画の目的は、それを使って何かを達成すること、です。
企画書に必要なものは、形容する言葉、表現する言葉ではなく、「課題」をしっかりと書くことであり、それが「解決」できることを示すことです。

長い文章は、分割して考える。依頼をもらったら、なるべく早めに「素材」を用意する準備を始める。自分の頭のなかにあるものから文章をつくっていくとき、ある程度の「素材」を出すには、時間がかかる。そして、長い文章は分割してつくればよいのです。3000文字となるとひるんでしまっても、500文字を6ブロックと考える。そうすることで、書きやすくなります。


〇身につけるための努力
頼まれなくても、自分で議事録をまとめてみる。日常の仕事の場を、トレーニングの場として活用してみる。
的確に早く書くにはどうすればよいか、自分で体感しながら工夫する。

3行日記とは、「今日一番失敗したこと」「今日一番感動したこと」「明日の目標」の3つだけを練る前に1行づつ書く、というものです。

 

読書案内:日本人の承認欲求

日本経済新聞の「私の履歴書」でよく見かける「特別な才能のない私が今日の地位に就けたのは、周囲に恵まれ、運が良かったからです」という表現は、実際には「運も実力のうちだ」あるいは「謙遜しているが本当は優秀だった」と受け取られることを前提とした一種の計算が含まれているらしい。私はこれまで、その言葉をそのまま文字通り受け取っていた。
どうやら世の中には、このような“控えめな自己アピール”、いわば「チラ見せ」が多く存在している。
自分の中の承認欲求を理解したいと思い、この本を読んだのだが、そこには世の中で起きた不祥事の背景として思い当たる点がいくつかあった。
人の行動には必ず何らかの承認欲求があると仮定し、それが日常の中でうまく隠されていること、あるいは自ら隠していることに気づくことができれば、自分の欲求にも気づき、理性で判断することができるようになるのではないか。
私自身も、自分をより良く見せてくれる鏡のような存在として、地位やお金、あるいは権力を求めている面がある。しかしその一方で、組織の中に収まりきりたくないという思いもまた、確かに自分の中に存在している。

 

〇承認欲求とは
承認欲求とは「他者から認められたい、そして自分を価値ある存在と認めたい」という欲求である。
承認欲求の基礎的な部分を占めているのは、「自分自身を知りたい」という願望である。社会的動物である人間は、自分自身の能力や個性に加えて、自分が他人からどう評価されているのか、集団のなかでどのように位置づけられているのかを知りたいと思う。そして、そこに「自分のできるだけ綺麗な姿を写しだす「鏡」」を求めてしまう。

(見えない承認欲求)
・子供が親に認められたい
・背伸びをしたい、自分のよいところを認められたい
・ありのままの自分を丸ごと認めてほしい
・大人が異性にモテたいと思う
・ネットへの露出
・映えのための追加消費

(見える承認欲求)
・役職、地位、お金、権力で象徴されるもの
・学歴、偏差値で象徴されるもの

〇承認欲求がどのように表れるか
承認欲求とは、とにかく目立ちたい、注目されたいという欲求だと理解している人が多い。しかし、そうした行動は承認欲求の特殊な表れ方に過ぎない。
承認欲求は、実際にはもっと奥深くて普遍的で、欲求の中身も表れ方も多様性(態度や行動)に富んでいる。

他人から認められたいという気持ちのなかには、たとえば認められると発言力が増し、自分の欲求が通りやすくなるとか(自己効力感)、人事評価がよくなり給与が上がるだろうというような計算も紛れ込んでいる場合が多い。認められることにより、自己肯定感、自尊心、自己実現欲などが高まる。

承認されたいという積極的な形で表れるばかりでなく、承認を失いたくないという消極的な形で表れる場合もある。屈折した形で表れることもある。意地やメンツ、嫉妬などの感情として表れる。

私たちは生活のなかで、、様々な形による無数のコミュニケーションのなかで、意識的に、無意識的に承認欲求を満たす「承認」を行っている。
・他人や周囲から感謝されたり、笑顔の挨拶、食事へのお誘い、他人からの注意も含めて、多くのコミュニケーションやフィードバックがある。

〇リアルな世界にある様々な承認欲求
日本では、学歴や偏差値の実質的な価値はそれほど大きくないことを自身も理解しているにもかかわらず、より高い学歴、より偏差値の高い学校を出ていることに価値があると思っている。より狭き門をくぐって合格した者は優秀な人物だとみなされる。偏差値の高い学校に合格した者は「頭がよい」とみなされている。人格の根幹に近い承認が得られる。同様に、高い地位に就いた人は、能力や実績、権力の象徴である地位を持つことで、人格的に円満で信頼できることを意味する。「尊敬の欲求」を満たそうとする気持ちがある。

仕事で役職を持っていること、集団の中で立ち位置を持っていることで、「無形の報酬」「社会的報酬」がある。
・地位が高い人は対等な場に降りることで、「偉さ」を見せつける。上役への敬意、言葉に耳を傾ける。
「見せびらかし」がしばしば、その人の地位と不釣り合いなほど俗っぽく、幼稚な形で行われると、問題になる。肥大化した承認欲求が理性を麻痺させるのだろう。自己で足りることのない、他者からの「尊敬の欲求」のため。
・接待慣れし自尊心をくすぐる手管を持ち合わせた人たちに、自分たちの「偉さ」を見せびらかす、確認する快感が理性のブレーキを外してしまったのではないか。

露骨な自己顕示欲は「はしたない」とされ、人間関係のなかで自ずと距離を置かれるので、「チラ見せ」がされる。

組織も社会もフラットになると、地位の差に基づく「偉さ」を見せびらかす機会は少なくなる。そして、能力や実績に応じて役職の序列が決まるという構図は崩れ、職位のシグナリング効果は低下し、地位の高い人は能力や実績があり、人物も優れているという見方は、会社内だけの序列でしかなくなる。
技術革新の変化に伴う仕事内容や情報経路の変化、組織のフラット化などによって、役職の序列によるタテ方向の権威が弱まっていきた。
「偉さ」の見せびらかしは、閉鎖的な共同体という相手が逃げられない空間のなかでこそできる。

読書案内:モースその日その日:ある御用教師と近代日本

モースの伝記という体であるが、ところどころに著者の軽妙な感想や現代の知見からみるとこうだという部分が入っているところがとても楽しく読めた一冊であった。明治10年(1877)から大正10年(1923)までの時代の雰囲気が知れた。
以下、モースの果たした偉業ではなく、彼が写し取った日本人を以下に書く。


日本人の性質は、清潔であることや、正直であること、公徳心の高い。

漁村の魚クズを所かまわず捨てるといった状態ではなく、普通にハエがいない

人ゴミのなかでも懐中の財布や時計を押さえずに歩き回れること、ベンチに傘を忘れて1時間たって戻ってきても、傘がなくなっていないこと

『芝生に入るべからず』や『スリにご用心』といった掲示も見かけない

鍵を掛けない部屋の机の上に小銭を置きっぱなしにしても、使用人は触っていけないものには絶対に手を触れない。

日本の家屋には鍵や錠が少ないこと、鍵があってもあまり使用しないこと

人力車で乗り回すうちに、塀や建物を見苦しくする落書きとかひっかき傷がまったく見られないに気づいた。

日本人は、ごみやガラクタを焼いたり、埋めたり、再利用したりするので、一目につかない。街の通りも清潔だった。

生き物も大事にされていた。東京の街なかの通りでも、鳥やスズメが人影を恐れずにたむろしていた。車夫は、道路の犬や猫、ニワトリを注意深く避けて車を引いていた。
わざと犬めがけて石を投げたが、犬は走り去りもせず、牙をむきだしたりもせず、側を転がる石を見ているだけだった。

当時の日本は刑罰が今日では考えられないほど厳しく、それが犯罪を防止していたようだ。

私は、なんでもすぐに「なぜ?どういうわけで?」と質問するが、日本人はそういう風には思わないようだ。学びはするが、なぜ?どうしてとそうなる?という疑問は持たないようだ。
(欧米では野生動物の数や生態の調査・追跡が生物学者によって継続的、大々的に行われており、その成果が環境汚染の早期発見につながったという事実である。)

読書案内:物語もっと深読み教室

Youtubeで国会図書館の「児童文学講座」を受けてみた。
その中で、詩をどのように読むかという内容が取り上げられており、この図書を読むことにした。
詩などを読む機会があったら、句読点をしっかりと、間を大事にして読もうと思う。

物語に書かれている内容の目新しさや展開の面白さだけでなく、どう書かれているかも大切なことだと知った。
表現者になるとは、自分ではない、もう一つの視点を持つこと。
物語を読むなかで、表現者の立場での読みができるようになりたいと思った。


「物語」の読み方には二通りある。「何が書かれているか」と考えながら読むことと、「どのように書かれているか」を考えながら読むことです。「何が書かれているか」は「物語」の内容や主題を読むこと。それに対して、「どのように書かれているか」は、「物語」の表現や構造を読むことです。
「どのように書かれているか」と意識しながら読んでいけば、みなさん自身が書くときのスキル、「技」がつかまえられるのではないかと思う。

見えざるもののおくそこまではいりこみ、凡人にはのぞき得ない、神秘な場所にかくされているものを、光のさすところにとりだし、凡人にもはっきりーあるいはある程度ー理解できるようにみせてくれるものである。

十歳くらいまでの子どもは、どんなに好きな本でも、その作者を意識しないのではないか。
子ども読者にとって重要なのは、それぞれの本が面白いかどうかだけ。

特に作者を意識せずに、そのほうが面白いかどうかだけが問題になる読書をしていたのではありませんか。

<成長物語>では、主人公は一つの人格という立体的な奥行きをもった個人である。主人公が経験したことは、その内面に累積していって、自己形成が行われる。
<遍歴物語>は、、対比的に、主人公はむしろ抽象的な観念であって、それが肉化したものとしての人物であるにすぎない。いわば、主人公そのものはどうだっていいというところがあり、重要なのは作品を通じて繰り返し試される観念の方である。
「アンパンマン」や「サザエさん」は「遍歴物語」である。「アンパンマン」の主人公があらわしている観念は「正義」、「サザエさん」で試され続けているのは「庶民の幸福」か。
 日本の現代児童文学には「成長物語」が多い。大人たちの子どもへの期待が成長する主人公に託されて、子ども読者に渡されてきたのかもしれない。


言葉は、現実を写すのではなくて、新しい現実を想像する力をもっている。
パウル・クレーの文章にあった「芸術は見えるものを再現するのではなく、見えるようにするのである」

書くということは、現実とはまったく別の場所で行われることで、現実の時間を再構成することができる。
私たちは、みんな、現実のなかに生きています。その現実を踏まえて書くことになるわけだけれど、書くという、その場所は、現実とはまた別の場所です。現実とは別の場所で、現実の時間や空間とは別の時間や空間を創造することによって、かえって、真実を語ることができる。それが「書くこと」です。

表現者になるならば、現実とは違う場所に立たなければならない。「書くこと」の場所とでもいうべき、そこに立つことができるのは、現実を生きている自分ではない。自分とは別の語り手を創造して、その語り手に語らせるんです。語り手は、実際の自分より、ちょっとおしゃべりかもしれない。実際の自分より、ゆったりと聡明かもしれない。自分のなかに、語り手というキャラクターを生み出すことができたとき、その人は、表現者になれる。「書くこと」は、現実の再構成にほかなりません。

 

小説:「七つの会議」

仕事小説として面白い小説というお薦めがあったので、読んでみた。
章ごとに語られる登場人物が話の展開を進めていくのがとてもよくできていると思った。
いろいろな人がいろいろな考えをもって仕事をしているのだと改めて感じた。
マイナス思考のスパイラルにはまる、今そんな気持ちになっている。

 

企画を実現させるために、面倒なことを後回しにするのではなく、最初にしっかりと説明すべきではないか。
小さくてもビジネスなら、最初に隠し事なく説明するのが信頼関係の第一歩のはずだし、そうでなくては、今後いろんなトラブルが起きたときに乗り越えていけないだろう。

むしろ問題なのは、新田自身が己の身勝手さに気づいてないことだ。いつも自分が正しいのだ。悪いのは相手のほう。世の中は常に自分を中心にまわっている。

北川が家庭で感じるのは、よそよそしさと小賢しい妻への反感、思うようにならない息子に対する苛立ちだ。
あくせく働いてきた挙句がこれか。幸せですか、と問われたら、どう答えていいのか、北川にはわからなかった。

無駄と思う前にやってみる。それは優秀な営業マンだった頃からの北川の行動指針でもある。

「仕事っちゅうのは、金儲けじゃない。人の助けになることじゃ。人が喜ぶ顔を見るのは楽しいもんじゃけ。そうすりゃあ、金は後からついてくる。客を大事にせん商売は滅びる」

仕事上の不正に時効はないんじゃないでしょうか。過去の話だろうと現在の話だろうと、悪いものは悪い。

調査委員会が追及しているのは責任の所在ばかりだ。一方、宮野たちは、「近々発表するつもりで隠蔽とは違う」とか、「一社員の悪意の出来事であり、通常のマネジメントではチェックするのは不可能だった」とか、責任逃れの証言ばかり繰り返している。
八角が欲したのは、ノルマ達成や収益至上主義で汲々とするうちに忘れてしまった、本来の商売を取り戻すこと以外のなにものでもない。