以前に読んだオードリー・タンの3つのCを説明してくれている内容を思い出しながら、読んだ。
3つのCは、「正解が一つではない複雑な問題」に対処するときに効果を発する。
また、「真理はあなたたちを自由にする」という聖書の言葉が出てくる。何から自由になれるのかと、何とは、なんとなく、自律的でない追随型、同調型の自分とか、自分を認めてほしいと思う気持ちからの自由で、自分の最適解を導き出せる方法や自分を信じられるようになるという意味なのかしらん。
哲学対話は3つの思考力を鍛えていく必要がある。
明らかに奇妙で偏った意見に対して、質問したり、反例や反論を出したりする検討することができる。
哲学的なレベルで対話することで、問いを掘り下げることができる、自由になれる。
「真理はあなたたちを自由にする」とは聖書の言葉。
自分の本当の問いに答えを見つけたものは、その問いが発生している葛藤から自由になる。問いは自分がある考えに囚われていることから生まれています。その問いに答えることで、自分を縛っている発想の枠組みを相対化して、自由になることができます。
人に無理矢理に同調しているような人間関係は、幸福な人間関係ではなく、その状態を続ければ、いずれはその友人たちを嫌うようになっていく。
〇批判的思考
説明(言葉を定義しているか、意味を定義しているか)、根拠づけ(根拠や理由が正しく挙げられているか、反例が出せたか)、分析(複雑なものを要素へ分析できたか、比較や対照を行ったか、適切に問題を分類したか、カテゴリーを適切に使えたか)、論理性(論理的な展開ができたか、演繹や帰納を適切に行ったか、論理的な反論や批判ができたか)、反省性(自分の考えを議論のなかで点検したり、修正したりしたか)。
〇創造的思考
新しい考えを出せたか、仮説を立てられたか、他の可能性や代替案を提示できたか、想像や比喩、架空の事例を思いついたか、アイデアを展開できたか。
〇ケア的思考
議論している内容の価値を理解しているか、他人の反論や疑問を尊重できたか、自分以外の立場の視点に立てたか、自分や他の生徒の感情に配慮できていたか、自分の発言が他の生徒に及ぼす影響に意識を向けられたか、グループ全体での議論の成果に目を向けられていたか、他人の発言やグループの議論を展開したり、深めようとしたりしたか、他人の発言を適切に評価できたか。
もう少し掘り下げます。
批判的な思考とは、常識や既存の考え方も含めて情報を鵜吞みにすることをやめ、ある考え方の真偽や妥当性を検討してみる態度のこと。
誰かが、私たちに自分で吟味する機会を与えずにただ信じ込ませたいと思うことがらを易々と受け入れてしまうことを避けるため。自覚することの難しい自分の信念や思い込みを検討するため。
次の創造的思考とは、新しいものを生み出す思考のことです。創造的に考える人たちは、自分の頭で考えている人たちであり、大勢の人たちが考えに安易に同調しない独立心があります。創造的思考は、人を刺激し、人にも新しい考えを思いつかせます。
創造的であるには、絶えず新しい不審と不確実性を求め、何かをさらに進めよう、何かを生み出そうという態度をとっているときにこそ活性する。
最後のケア的思考とは、2つの意味があり、一つは気遣いをもって自分の思考の主題を考える(行うことの価値を与える)という意味、もう一つは、思考の方法について関心を持つこと、自分の態度が相手にどう影響するか(行うことによりどのような変化を与えるか)、です。
ケアは、物事を丁寧に調べたり、物事どうしの関係性を発見したり創造したり、他の行動の選択肢を思いついたり、問題を調べて解決法を見つけたりするような認知的な作用として機能します。
哲学対話では、問いに答える前に、まず問いを吟味して、真正のものにします。それは、問いの前提にさかのぼり、問いを発している根本的な思考の枠組みを明るみに出すことです。それは同時に、社会の「常識」や慣習を検討しなおすことでもあるのです。
「学校の規則は誰が決めたのですか」という問いは、その人が本当に問いたい問いではないかもしれません。
真正の問いは「なぜ、コレコレの規則は守るべきなのか」であり、「変な規則にも従わなければならないのか」という問いになる。
中高年の男性なのですが、彼らは他人の話を聞いて自分を点検しようとか、変容しようとかいう気持ちが少なく、その逆に、その場にいるみんなに自分を認めてほしいという気持ちでいっぱいです。ですから、自分が尊敬している著者の本からたくさん引用し、覚えてきた知識を披露して一方的に自分の言いたいことを長々と話し続けます。今ある自分の姿を認めてほしいので、自分を変えることになる「聞く」という態度ができずにいます。
自分で道徳的な問題について考えてみることをせずに、その場の流れや権威にやすやすと追随する人間は、決して道徳的たりえないでしょう。なぜなら、自律的な道徳性の追求が欠けているからです。素直で従順なだけの人間が、実は判断力と反省力に欠けた大衆として、ときにいかに不道徳な行動をするか、私たちは多くの例を知っています。