読書案内:実は人をモヤっとさせる失言図鑑

私としては、3つのタイプの中で、気を付けたいと思ったのは、③の配慮に欠ける言葉を減らすこと。
自分は、相手の気持ちを想像するのが苦手だと思うからだ。相手のことを考えているつもりが、自分がどう評価されてしまうかを根っこでは心配していることがある。

配慮に欠ける言葉は、自分の都合や思い込みから生まれる。大切なのは「この言葉を言われた相手は、嫌な気持ちにならないか? 大切にされていると感じるか?」と、相手の立場に立って寄り添いの言葉を選ぶこと。また、相手の時間や考える負担を減らせる工夫をすること。例えば、「〇〇の件で1分だけ確認させてください。〜〜はAとBどちらで進めますか?」と送れば、相手は即答できる。この2つの意識をもって、相手を思いやる心地よい言葉選びができるといいなぁ。

 


失言とは、「言わなくていいことを、うっかり言ってしまうこと」
「傷つけよう」とイトして発せられた言葉ではないのに、それどころか「場を盛り上げよう」「相手を励まそう」と思って言ったはずなのに、なぜだか受けてをモヤモヤさせてしまう言葉。
①よかれと思って言った言葉が、裏目にでてしまう
②決めつけの言葉(言う側の価値観がでた発言、ひとくくりにしてしまう表現)
③配慮に欠ける言葉(相手の気持ちを想像しきれていない発言) 


(表現)
・判で押したような”定型文”は、相手の心に響きません。本当に「参考になった」という感謝の気持ちを伝えたいなら、「〇〇の話が参考になりました」と、具体的なエピソードを盛り込むようにしましょう。

・「さ」さすが、「し」知らなかった、「す」すごい、「せ」センスいい、「そ」そうなんだ
 気軽に使うと「とりあえず言っている」感じがして、せっかくの「ほめ」に重みが感じられません。

・まず相手のエピソードを受け止めること。
 どんな話もいつの間にか自分の話へと持っていく人は、「会話泥棒」と呼ばれ、周りからよく思われません。

・「普通は○○」と言うときのほとんどが、「普通」という言葉を盾にして、個人的な価値観を押し付けている。

・相手の話をじっくり聞きましょう。解決法は見出せなくても、「大変だったね」と寄り添ってあげるのがやさしさです。

・気を利かせたいとき、「〇〇してあげて」という他人に発する言葉より「私が○○するね」の方が印象がよい。(率先して動く配慮)
 「〇〇してあげて」は「誰かやってよ」という丸投げの姿勢(他人任せ)が感じられる。

・体調を崩していた、仕事が超絶繁忙期だったなどの「バタバタしていた」理由が本当にあるなら、素直にそれを伝えましょう。なんとなく「バタバタしていた」だけなら、「遅くなってごめんね」のほうが、ずっと返信を待っていた相手の心も少し和らぐ。

・「誤解です」と言いたくなるシーンでは、説明側と受けとり手の間に思い違いが生じています。この思い違い=認識のズレが生じる原因は、説明不足と理解不足のどちらかか、あるいはその両方にあります。「そんなつもりはなかった」としても、まずは「説明不足ですみません」と自分の非をおわびしましょう。


人と話すのはとても面倒なことです。だからといって、「人と話さない」ことは正解ではない。失言に気を取られるあまり、黙ってしまうのは本末転倒です。
自分の失言によって雰囲気を悪くしてしまったら、謝ればいいだけのこと。「ごめん」という素直な言葉は、気を悪くした相手にもストレートに響くでしょう。
言われて嫌なことには、「ちょっとグサッときたかも~」「なんでそんなこと言うの~?」などと勇気を出して言ってみましょう。「人はそういうことで傷つくんだな」という相手の学びになり、あなたに対してだけでなく、他でいうのもやめるかもしれません。自分の気持ちを伝えることをあきらめない姿勢は、周囲のコミュニケーションをも円滑にしていきます。

負けことばには、「自分が負けることば」と「相手を負かすことば」があって、どっちもダメなのだ。コミュニケーションの基本は、どちらも負けないこと。「相手を気持ちよくして、自分も負けない」ことばこそが、勝ちことばなのである。
「すみません」と謝ると、「私が悪い」と認めることになるので、負けたような気になって、気分が落ちる。「ありがとうございます」と言うと、「あなたの職務遂行に経緯を表し、感謝します」という雰囲気が漂って、負けた感じがしない。

読書案内:科学の力で元気になる38のコツ

読んだだけでは知識は身につかない。人間とはそういう習性なのだとわかっていても、自然に身につかないのはとても不便なものである。
元気や幸せになりたいのに、自分の意識はどこに行ってしまうのだろう。

AIに整理してもらった。
呪文:「まず動く!美しく、人に優しく、おもしろく!」
「まず動く!」:やり始めれば集中する脳のスイッチを入れ、ネガティブ思考や不安を吹き飛ばします。
「美しく」:鏡の自分を意識して背筋を伸ばし、ふるまいを洗練させます。
「人に優しく」:人の良いところだけを見(加点評価)、自分をハッピーにする「1日5善」を呼び込みます。
「おもしろく!」:自分の未熟さやトラブルも、ユーモアを持って客観的に受け入れます。

脳と身体の関係を見てみると、人間は「やり始めれば集中する」ようになっている、というより、やり始めなければ、集中ができないようになっている。
やりたくないなぁ…と、頭で思うよりも先に、行動!

急なトラブル対応や無理やり押し付けられた仕事など、気乗りしない仕事をするとき、「声を出しながら、目の前のことにあたる」。
「シュっ」「ジャンプ」と声を出す。実際に声に出さずとも、心の中で「今日は調子が良いな…」などと念じながら行うだけでも効果がある。

能力の低い人ほど、自分の未熟さや他人のスキルの高さを正しく認識できない。そのため、自分を過大評価する傾向がある。
人間は誰しも「自分の能力不足を認めるのはつらい」。

落ち込んでいるときネガティブ思考は百害あって一利なしです。どうか、できるだけ意識的に、自分の中からそのような考えを追い出せるように努力してみてください。
うつ状態にある人は、自分に関する否定的情報をよく思い出したり、それをもとに物事をとらえたりする傾向が明確に出る。

人間関係の解決法は「人を減点評価で見ない」ということに尽きます。
私たちは放っておけば人のイヤなところばかり目についてしまう。「悪いところではなく、よいところだけを見よう」と腹をくくる。

ここ一番の勝負に臨む前には、トイレなどに駆け込み、数分間背筋を伸ばし、それから本番に臨んでみる。
不安を書きだした場合とそうでなかった場合では、書き出した方が成績がアップした。
不安を整理して書き出すことで、ワーキングメモリを占める心配ごとを追い出すことができ、試験により集中できる状態に脳を持っていける。

人のためを思った行動は、自分自身をハッピーにする。
1週5善、週に1回1日5善がベスト。

鏡を意識して生活する。自分の姿をチェックする。
ふるまいを洗練させていくことを意識する。

読書案内:生きのびるための事務

この漫画の趣旨は、「好きなことを続けるための事務」にあるように感じた。
《評価》さえも事務的な対象として捉えられている点が印象的である。
お金を稼ぐ以上、相手や上司から評価されることは避けられない。しかし、「誰からも評価されよう」とするのではなく、「誰に評価してもらいたいのか」「どのような評価を求めるのか」を意識することで、評価との向き合い方にも工夫の余地があることが描かれている。
また、この考え方は仕事にも通じると感じた。例えば、最近経験したような議事録のドラフトを積み重ねていく作業も、感情的に受け止めるのではなく、一つの事務として淡々と処理していくほうがよいのかもしれない。心で受けるのではなく、事務を回す感覚で取り組むことの大切さを考えさせられた。

一方で、職場の事務は自分の目的ではなく、他者の目的や組織の維持のためにエネルギーを使う側面が強い。「好きなことをするための事務」と「組織を支えるための事務」は似ているようでいて異なる。だからこそ、この漫画に共感する部分と、自分の仕事にはそのまま当てはまらないと感じる部分の両方があった。

 


おじいちゃんは何かができるようになるための努力は無駄だから、一切するなと言いました。
努力が必要なことはしなくていいことだ。好きなことだったら、ほっといてもどんどん上手になるから、それだけやれ。

恭平もこれからは作家になりたいなんて口走るのではなく、毎日5時に起きて、9時まで原稿を書き続けたいと、言えばいいんです。
作家になるって、そういうことです。

《将来の現実》が見えてない以上、その仕事をうまく発展させていくなんてことは、できないでしょう。
将来の現実とは、将来の自分が、24時間をどのように過ごしているかを想像する以外にない、仕事の中身は考えても評価されるかどうかはわからない。


《好き》は《自信》を凌駕する。《自信》がなくなると作業が止まりますが、《好き》は止まりません。
《事務》の世界で確認することはただ1つ、あなたが継続していきたいことが、本当に《好き》かどうかです。
《好き》で作業を継続しているものは、《失敗》なんか問う必要もありません。
他者は無責任に《失敗》を口にします。そんな評価は無視するに限ります。

事務的に考えると、「本を書くこと」と「本を作る」とでは、まったく別のことです。
「ただ書くこと」が好きなら、書いていたら楽しくて勝手にどんどん書き進んでいけます。一方「何かを作ろう」と考え始めると、作業は止まります。

 

事務的なやり方
《事務》は分からないものを明らかにするのではなく、わからないまま仕事を延々と継続するためにあるのです。
上手くいく人は、上手くいくことしかしません。簡単なことです。《上手くいく》とは、ただ《やり方があっていた》ということだけなんです。
自己を否定したり肯定する《やり方》は、事務的に間違っています。
否定すべきは《己》ではなく、己が選んだ《方法》のみである。
「何を書くか」に悩まず、ただ書く《やり方》を実践する。
《才能》っていうのは、いつまでも楽しく好きなことを、続けられることです。
《評価》を目的とする《やり方》は間違っています。
他者の《評価》で気分が変わってしまっては、継続して物事を進められません。

《評価》を作り出す《方法》は、《評価》されたいものを定める。
好きな作家や雑誌など評価されたいものに《評価》されれば、仕事も生まれます。


ダメな時も、よい時も、自分の《事務》を《評価》するんです。
できないって言っているのは技術的にできてないわけではなくて、設定した《事務》の《方法》が間違っていただけ。
自分は褒めるな、自分の《事務》を徹底的に褒めろ。逆もしかり。自分を批判するな、自分の《事務》を徹底的に批判しろ。

読書案内:14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで

この本を手に取ったときには、作家による文芸論が書かれた作品だと思っていた。

しかし実際には、ディスレクシア(読字障害)の中学生が本を執筆した経験を描いた内容だった。
ディスレクシアという障害の存在は知っていたものの、その特性や当事者が抱える困難について理解を深めるよい機会となった。
また、合理的配慮について考えさせられた。誰もが幸福を追求できるよう、一人ひとりの生きづらさや障壁を取り除く仕組みを社会が備え、変化し続けることの大切さを感じた。


読み書き障害の調査によると、小中学校の35人学級に平均2人は学習障害の疑いがある。学習障害は知的障害ではないので、特別支援学校に行く必要はない。

(症状・傾向)
読み障害であるなら、数学で計算問題はできるのに、文章問題は解けない。
教科書に書かれている文章の読解に特に問題はないが、初めて見る文章に関してだけ点が取れていない。
読み書き障害であるなら、さっとメモが取れなかったり、読めなかったり。
読むのが得意であるにもかかわらず、手書きするのが苦手であった。
読んでいる文字が何なのかわかるが、白紙に文字を書くことができない。
宿題を異常なまでにやりたがらない。
いくら漢字を練習しても覚えられない。
喋っていても特に思考力や知能に違和感を覚えることはないのに、読み書きだけが以上に稚拙に思える。

(障害への対応)
障害に対して、障害は本人の特性で、それはその人の所属する社会に適合できていない本人の変化によって適合させる考え方と、「障害」を個人の落ち度や問題と考えず、社会から障害となる要因を排除する対応する考え方とある。障害を排除する方法として、個人の工夫(従来の読み書きに代わるIT機器の使用等)と社会のインフラ(合理的配慮・教師陣の理解等)がある。

「当たり前のことを当たり前にこなす」のは美徳であるが、その当たり前ができないことによって、どれだけの精神的なプレッシャーがかかっている。

「なんで勉強ができないのか、読み書きができないのか」と本人を責めないでほしい。
アドバイスは、子どもから求められたときだけ、アドバイスをしてほしい。

読書案内:自分で考え 自分で話せる 子供を育てる 哲学レッスン

以前に読んだオードリー・タンの3つのCを説明してくれている内容を思い出しながら、読んだ。
3つのCは、「正解が一つではない複雑な問題」に対処するときに効果を発する。
また、「真理はあなたたちを自由にする」という聖書の言葉が出てくる。何から自由になれるのかと、何とは、なんとなく、自律的でない追随型、同調型の自分とか、自分を認めてほしいと思う気持ちからの自由で、自分の最適解を導き出せる方法や自分を信じられるようになるという意味なのかしらん。

 

哲学対話は3つの思考力を鍛えていく必要がある。
明らかに奇妙で偏った意見に対して、質問したり、反例や反論を出したりする検討することができる。
哲学的なレベルで対話することで、問いを掘り下げることができる、自由になれる。

「真理はあなたたちを自由にする」とは聖書の言葉。
自分の本当の問いに答えを見つけたものは、その問いが発生している葛藤から自由になる。問いは自分がある考えに囚われていることから生まれています。その問いに答えることで、自分を縛っている発想の枠組みを相対化して、自由になることができます。
人に無理矢理に同調しているような人間関係は、幸福な人間関係ではなく、その状態を続ければ、いずれはその友人たちを嫌うようになっていく。


〇批判的思考
説明(言葉を定義しているか、意味を定義しているか)、根拠づけ(根拠や理由が正しく挙げられているか、反例が出せたか)、分析(複雑なものを要素へ分析できたか、比較や対照を行ったか、適切に問題を分類したか、カテゴリーを適切に使えたか)、論理性(論理的な展開ができたか、演繹や帰納を適切に行ったか、論理的な反論や批判ができたか)、反省性(自分の考えを議論のなかで点検したり、修正したりしたか)。

〇創造的思考
新しい考えを出せたか、仮説を立てられたか、他の可能性や代替案を提示できたか、想像や比喩、架空の事例を思いついたか、アイデアを展開できたか。

〇ケア的思考
議論している内容の価値を理解しているか、他人の反論や疑問を尊重できたか、自分以外の立場の視点に立てたか、自分や他の生徒の感情に配慮できていたか、自分の発言が他の生徒に及ぼす影響に意識を向けられたか、グループ全体での議論の成果に目を向けられていたか、他人の発言やグループの議論を展開したり、深めようとしたりしたか、他人の発言を適切に評価できたか。

もう少し掘り下げます。
批判的な思考とは、常識や既存の考え方も含めて情報を鵜吞みにすることをやめ、ある考え方の真偽や妥当性を検討してみる態度のこと。
誰かが、私たちに自分で吟味する機会を与えずにただ信じ込ませたいと思うことがらを易々と受け入れてしまうことを避けるため。自覚することの難しい自分の信念や思い込みを検討するため。

次の創造的思考とは、新しいものを生み出す思考のことです。創造的に考える人たちは、自分の頭で考えている人たちであり、大勢の人たちが考えに安易に同調しない独立心があります。創造的思考は、人を刺激し、人にも新しい考えを思いつかせます。
創造的であるには、絶えず新しい不審と不確実性を求め、何かをさらに進めよう、何かを生み出そうという態度をとっているときにこそ活性する。

最後のケア的思考とは、2つの意味があり、一つは気遣いをもって自分の思考の主題を考える(行うことの価値を与える)という意味、もう一つは、思考の方法について関心を持つこと、自分の態度が相手にどう影響するか(行うことによりどのような変化を与えるか)、です。
ケアは、物事を丁寧に調べたり、物事どうしの関係性を発見したり創造したり、他の行動の選択肢を思いついたり、問題を調べて解決法を見つけたりするような認知的な作用として機能します。


哲学対話では、問いに答える前に、まず問いを吟味して、真正のものにします。それは、問いの前提にさかのぼり、問いを発している根本的な思考の枠組みを明るみに出すことです。それは同時に、社会の「常識」や慣習を検討しなおすことでもあるのです。
「学校の規則は誰が決めたのですか」という問いは、その人が本当に問いたい問いではないかもしれません。
真正の問いは「なぜ、コレコレの規則は守るべきなのか」であり、「変な規則にも従わなければならないのか」という問いになる。

中高年の男性なのですが、彼らは他人の話を聞いて自分を点検しようとか、変容しようとかいう気持ちが少なく、その逆に、その場にいるみんなに自分を認めてほしいという気持ちでいっぱいです。ですから、自分が尊敬している著者の本からたくさん引用し、覚えてきた知識を披露して一方的に自分の言いたいことを長々と話し続けます。今ある自分の姿を認めてほしいので、自分を変えることになる「聞く」という態度ができずにいます。

自分で道徳的な問題について考えてみることをせずに、その場の流れや権威にやすやすと追随する人間は、決して道徳的たりえないでしょう。なぜなら、自律的な道徳性の追求が欠けているからです。素直で従順なだけの人間が、実は判断力と反省力に欠けた大衆として、ときにいかに不道徳な行動をするか、私たちは多くの例を知っています。

読書案内:メモ活

「今日はどんなことが起きたのか。それに対して、自分はどんなことを思ったのか。何かアクションを起こしたのか。これからどうしようと考えたのか。」という文章にはっとさせられた。
私は、自分がどう行動したのかの部分への振り返りの意識が足りず、それがいつも流されるままに生きている感じる原因なのかもしれない。最近、自分で計画を立てて、それを実現したときのうれしさに気付いた。たぶん、どんな行動をしたかが、満足感と直結するのではないかと思う。
朝に、昨日起きたことを書くことを日課としている。出来事のほかに、さらにどんな気持ちであったかまでは書くこともある。ただ、残念ながら、次はどうしようとか、どうすればよかったというところまで思慮が回っていない。

メモを活かすことが本当は難しいのかもしれない。書いたあとに、振り返りが、どうありたいまで想像できる人が強い人だと思う。

 

メモで、うっかりを防げないか、仕事のスピードを上げられないか、アイデアが出せるようにならないか。メモを素早くとれるようにならないか、メモを仕事に活かせないか、、、

今日はどんなことが起きたのか。それに対して、自分はどんなことを思ったのか。何かアクションを起こしたのか。これからどうしようと考えたのか。

とにかく「なんでもメモ」をとるのです。聞いたことや、見たこと、思いついたこと、感じたこと、思い出したこと、やらないといけないこと、やろうと思っていること、、、。忘れてしまう。だから、メモをとる。

書きっぱなしにしない。商談のメモを残したのなら、帰りの電車の中や会社に戻ってから、メモしきれなかった部分を思い出して追記しておくことです。また、仕事の手順を自分用のマニュアルに整理してみたり、どこに仕事の課題があったか、難しさがあったか、などもメモしておくと次の機会に活かすことができます。

自分がうまくいっている姿を、徹底的にイメージしなさい。自分はどんなことをやりたいか。どんなところに行きたいか。ワクワクできることはどんなことか。飛び上がらんばかりにうれしくなることは、どういうことか。

〇工夫・活用
自分で時間のコントロールをする。席で行う仕事もスケジュールに加えることで、自分の時間は本当はいつ空いているのか、コントロールできなくなるのです。

企画は「課題」と「解決法」で発想していく。そもそも企画の目的は、企画することではない。企画の目的は、それを使って何かを達成すること、です。
企画書に必要なものは、形容する言葉、表現する言葉ではなく、「課題」をしっかりと書くことであり、それが「解決」できることを示すことです。

長い文章は、分割して考える。依頼をもらったら、なるべく早めに「素材」を用意する準備を始める。自分の頭のなかにあるものから文章をつくっていくとき、ある程度の「素材」を出すには、時間がかかる。そして、長い文章は分割してつくればよいのです。3000文字となるとひるんでしまっても、500文字を6ブロックと考える。そうすることで、書きやすくなります。


〇身につけるための努力
頼まれなくても、自分で議事録をまとめてみる。日常の仕事の場を、トレーニングの場として活用してみる。
的確に早く書くにはどうすればよいか、自分で体感しながら工夫する。

3行日記とは、「今日一番失敗したこと」「今日一番感動したこと」「明日の目標」の3つだけを練る前に1行づつ書く、というものです。

 

読書案内:日本人の承認欲求

日本経済新聞の「私の履歴書」でよく見かける「特別な才能のない私が今日の地位に就けたのは、周囲に恵まれ、運が良かったからです」という表現は、実際には「運も実力のうちだ」あるいは「謙遜しているが本当は優秀だった」と受け取られることを前提とした一種の計算が含まれているらしい。私はこれまで、その言葉をそのまま文字通り受け取っていた。
どうやら世の中には、このような“控えめな自己アピール”、いわば「チラ見せ」が多く存在している。
自分の中の承認欲求を理解したいと思い、この本を読んだのだが、そこには世の中で起きた不祥事の背景として思い当たる点がいくつかあった。
人の行動には必ず何らかの承認欲求があると仮定し、それが日常の中でうまく隠されていること、あるいは自ら隠していることに気づくことができれば、自分の欲求にも気づき、理性で判断することができるようになるのではないか。
私自身も、自分をより良く見せてくれる鏡のような存在として、地位やお金、あるいは権力を求めている面がある。しかしその一方で、組織の中に収まりきりたくないという思いもまた、確かに自分の中に存在している。

 

〇承認欲求とは
承認欲求とは「他者から認められたい、そして自分を価値ある存在と認めたい」という欲求である。
承認欲求の基礎的な部分を占めているのは、「自分自身を知りたい」という願望である。社会的動物である人間は、自分自身の能力や個性に加えて、自分が他人からどう評価されているのか、集団のなかでどのように位置づけられているのかを知りたいと思う。そして、そこに「自分のできるだけ綺麗な姿を写しだす「鏡」」を求めてしまう。

(見えない承認欲求)
・子供が親に認められたい
・背伸びをしたい、自分のよいところを認められたい
・ありのままの自分を丸ごと認めてほしい
・大人が異性にモテたいと思う
・ネットへの露出
・映えのための追加消費

(見える承認欲求)
・役職、地位、お金、権力で象徴されるもの
・学歴、偏差値で象徴されるもの

〇承認欲求がどのように表れるか
承認欲求とは、とにかく目立ちたい、注目されたいという欲求だと理解している人が多い。しかし、そうした行動は承認欲求の特殊な表れ方に過ぎない。
承認欲求は、実際にはもっと奥深くて普遍的で、欲求の中身も表れ方も多様性(態度や行動)に富んでいる。

他人から認められたいという気持ちのなかには、たとえば認められると発言力が増し、自分の欲求が通りやすくなるとか(自己効力感)、人事評価がよくなり給与が上がるだろうというような計算も紛れ込んでいる場合が多い。認められることにより、自己肯定感、自尊心、自己実現欲などが高まる。

承認されたいという積極的な形で表れるばかりでなく、承認を失いたくないという消極的な形で表れる場合もある。屈折した形で表れることもある。意地やメンツ、嫉妬などの感情として表れる。

私たちは生活のなかで、、様々な形による無数のコミュニケーションのなかで、意識的に、無意識的に承認欲求を満たす「承認」を行っている。
・他人や周囲から感謝されたり、笑顔の挨拶、食事へのお誘い、他人からの注意も含めて、多くのコミュニケーションやフィードバックがある。

〇リアルな世界にある様々な承認欲求
日本では、学歴や偏差値の実質的な価値はそれほど大きくないことを自身も理解しているにもかかわらず、より高い学歴、より偏差値の高い学校を出ていることに価値があると思っている。より狭き門をくぐって合格した者は優秀な人物だとみなされる。偏差値の高い学校に合格した者は「頭がよい」とみなされている。人格の根幹に近い承認が得られる。同様に、高い地位に就いた人は、能力や実績、権力の象徴である地位を持つことで、人格的に円満で信頼できることを意味する。「尊敬の欲求」を満たそうとする気持ちがある。

仕事で役職を持っていること、集団の中で立ち位置を持っていることで、「無形の報酬」「社会的報酬」がある。
・地位が高い人は対等な場に降りることで、「偉さ」を見せつける。上役への敬意、言葉に耳を傾ける。
「見せびらかし」がしばしば、その人の地位と不釣り合いなほど俗っぽく、幼稚な形で行われると、問題になる。肥大化した承認欲求が理性を麻痺させるのだろう。自己で足りることのない、他者からの「尊敬の欲求」のため。
・接待慣れし自尊心をくすぐる手管を持ち合わせた人たちに、自分たちの「偉さ」を見せびらかす、確認する快感が理性のブレーキを外してしまったのではないか。

露骨な自己顕示欲は「はしたない」とされ、人間関係のなかで自ずと距離を置かれるので、「チラ見せ」がされる。

組織も社会もフラットになると、地位の差に基づく「偉さ」を見せびらかす機会は少なくなる。そして、能力や実績に応じて役職の序列が決まるという構図は崩れ、職位のシグナリング効果は低下し、地位の高い人は能力や実績があり、人物も優れているという見方は、会社内だけの序列でしかなくなる。
技術革新の変化に伴う仕事内容や情報経路の変化、組織のフラット化などによって、役職の序列によるタテ方向の権威が弱まっていきた。
「偉さ」の見せびらかしは、閉鎖的な共同体という相手が逃げられない空間のなかでこそできる。