読書案内:お金のむこうに人がいる

何かを購入するときに、人の仕事に支払っているという考えをするのは、面白いと思った。感謝の気持ちでお金を支払うのは、これまであまりしてこなかった発想だ。

お金を使うではなく、お金を流すという発想も、コストを払うというより、
意図的に払う感じがして、お金をこれまでより意識的に使う感じがした。

人中心で考える経済学の考え方は面白いと思うけど、具体的に、貯蓄は?、給与は?、家計は?と思うと別に自分の消費が時代を動かしているかもしれないけど、目先のことしか考えていない消費が多いし、実際の家計のやりくりは変わらないし、結局は考え方を変えたところで変化が見出せなかった。
また、GDPを考えて、消費をしているわけでもなく、どうせなら、GDPではっきりと数値化できるなら、家事などの費用を見せてもらいたいとさえ思う。家事に従事する人は、月10万円とか給付され、GDPに数値化できるようにすればよい。税金も取ればよい。

自分の勤務に給与は見合っているのか?という視点(同じ業務を効率よくする人と
遅い人で給与は同じなの)という視点はどうなの?とか、お金に関してもっと知りたいことがあった。

私自身は、この本で自分の関心の答えは見つからなかった。


お金のむこうには必ず「人」がいる。あなたのために働く人がいる。
僕たちは自分の労働を提供してお金をもらい、そのお金を使って誰かの労働を消費
している。


○お金の機能
お金には、交渉力と伝達力がある。
それは、言葉の伝わらない外国語にいても、相手が提示した価格さえ払えば、
他の人に働いてもらうことができる。
お金を流せば、自然に労働が集積され、どんな複雑なものも作り上げることが
できる。

 

○労働と価格の関係
すべてのものは労働によって作られている。
金だって、ステーキだって、原材料はタダで、大量の労働によって生産されている。
多大な労働がかかるから、価格が高くなる。

技術革新などの生産の効率化によって僕たちが受けている恩恵は、材料費や原価が
安くなることではなく、「労働が節約できること」。小人数で多くものを生産できれば、多くの人に行き渡らせることができる。節約できた労働を、他のモノの生産に使うことが可能になる。

自分がタダの労働を提供する時代なら、その目的はお金ではなく相手の幸せだった。
しかし、ほとんどの労働に価格がつくようになると、労働の目的は、お金と切り離せ
なくなる。相手の幸せを考えるよりも、相手に多くのお金を払わせることが
目的になっている人たちもいる。


現在あなたがお金を使えるのは、同じ空間の中に働いてくれる人がいるからだと考える。その人が働くことによって、あなたの生活が豊かになる。人中心で考える経済学。反対に、お金を稼いだからお金が使える。お金を使うためにお金を稼ぐという経済学。
ひとりの時間軸、お金中心の経済学。

 

○投資とは
投資とは、「将来のために使う労力」
勉強が投資と呼ばれるのは、自分の将来の可能性を広げることに労力を使うからだ。
大学に入るため、資格を取るために何年も勉強したりする。公共投資によって道路や
図書館が作られるのは、将来の人々の暮らしをよくするためだ。
多くの人が想像する投資は、投機と呼ばれるギャンブルであることが多い。

投資とは未来の生活を設計することだ。生活がより豊かになるために何が必要なのか
を考え、その研究開発や生産準備のためにお金を流す。投資によって、未来の選択肢
が増える。

消費でも投資でも、僕たちがお金を流すときには2つのことを比べている。
消費であれば、商品がもたらす「効用」と「価格」を比べて購入するかどうかを
決定する。
投資する場合は、その事業の「収益」と「費用」を比較する。
収益と費用を比べるということは、その事業が将来もたらす効用とその事業に
現在費やされる労働を比べることである。

お金はただ流れるだけだ。情報産業に注ぎ込まれたのは、お金ではなく、膨大な労働だ。僕たちが流している投資や消費のお金が、労働の配分を決めていて、その配分によって未来が作られている。

政府がお金を流そうとする理由は大きく2つある。みんなが使えるモノを作って効用
を生み出すことと(図書館をつくる)、生活に困っている人にお金を配ることだ(
児童手当のようなもの)。

お金を流すことが自体が目的になると。人々にムダな労働をさせていることや、
人々にもたらす効用が少ないことに気づけなくなってしまう。

「どれだけの労働が、どれだけの幸せをもたらすか。」
「誰のためになるのか」「どれだけの効用を増やすのか」を気にするべき。
「誰が働いて、誰が幸せになるのか」を考えれば、誰のためにもなっていない
と感じたら、疑った方がいい。

昔の日本で、多くの子供を育てることができたのは、親だけではなく社会も、
子供を育てる負担をしていたからだ。この「負担」は金銭的な話ではない。
社会全体も子育てにもっと協力的であった。
現代の日本では、地域社会に子育てを負担してもらえることが少なくなった。
そして、社会は子育てに協力的どころか寛容さを失っている。