読書案内:ルールはそもそもなんのためにあるのか

『ルールはどうあるべきか』というタイトルにすべきなんじゃないかと思った。

 

ルールは、お互いさまという配慮を持った行動がとれるようなルールだと、よいルールと言われるようだ。しかし、杓子定規にルールだけ守って開き直って相手を見下すようなことをしてしまうと、相手の許せないという心に火をつけてしまうことがある。裁判という制度(ルール)で、解決を考えても、それですっきりしないこともある。

 

この図書のタイトルは、『ルールはそもそもなんのためにあるのか』である。

ルールを作るなら、皆が納得するものを作らないといけないというのは分かった気がする。でも、ルールを考えるとき、スポーツのあらかじめ定めたルールに似た、支配者側が押し付ける、配慮のない、ルールが多いのではという気がした。

そうすると、ルールは、勝ち組が世界を支配するためのルールで、世界を秩序つくるためにあるのではないか、という気がした。つまり、ルールは、弱者が食われるためにある。

 

「ルールは、なんのためにあるのか?」それは、弱者を抑えつけるためにある。
以前読んだ日本国憲法の本には、国民が政府を見張るためにあるって書いてあった気がするが、どうしても制度と実体が伴わなくて、納得がいかなかったことを思い出した。

 

この本は、ルールはそもそも、皆が配慮しあい共益であるためにあるものなのに、そうなっていないということを、逆説的に伝えたかったのかな。

 

正義は人々の嫉妬心にある。
「自分とあいつは同じなのに、なぜ自分は我慢して、あいつだけおいしい思いをするんだ?」という感情(嫉妬心)だが、これは決して醜いものではない。正義は誰かの諦めや犠牲の上に成り立つものではない。


この場合の「誰から見ても決して許せないこと」に共通する構造は、Aの情況とBの情況が同じ場合に、ちゃんとした理由なく差別的に取り扱われているときに発生する。皆が納得する理由が示されれば、差別的な取り扱いにも怒りは起こらない。

 

世の中、形式的には法律やルールに反していないとされる行為でさえ、他人をモノのように扱うとか、セコい下心が透けて見える行為というのが結構ある。そういう行為が横行すると、当のルールへの人々の尊重心が薄れ、やがてそのゲーム自体が堕落してしまう(ルール自体がそのゲームの意味や世界観を表しいるのであり、それを守ることが対戦相手への敬意を表すものにもなる)。だからスポーツに限らず、フェアプレー精神を大切にすることが必要だ。

 

ルールには「要約的見方」に立つもの、過去の経験に基づき、人々がこれからどのように行為をすべきかを決定するルールと、「実践的見方」に立つスポーツのような、あらかじめ定められたルールに従わなければならないルールとがある。

 

利己的な人々がどういう条件のもとで自ずと社会秩序を形成するのか、そのパターンを知り、それを立法者が課そうとしている法や条例と一致させるように工夫すれば、人々にとって可能な限り違和感のない法となり、かくて人間社会は円滑に調和的に進み、人々を益することになろう。逆に利己的な人々の行動原理を無視し、ただただ罰を振りかざして命令するだけの法は、人々や社会を害することになる。

 

ルールとは、人為的に作るものではなく、人々日常生活での営みから自然に生じて、皆に利益を与えるがゆえに喜んで受け入れられ続けられるものがもっともよい。

 

ネット世論SNSを介して自分の<正義>を振りかざし、いつも誰かを叩きたい人。
 自分の価値観が正しいと信じ、かつそれをわざわざ言いたい人が、匿名性に隠れて自分の意見を強く主張する。

 

「キャンセルカルチャー」SNSを用いて、社会的に重要な立場にある著名人の隠蔽された過去の犯行や前科、不祥事を明るみに出すことによってその人の責任を追及し、結果的に失脚させるなどの活動。