読書案内:すばやく鍛える読解力

多くの下手な文章に添削を加えてきた著者の経験を知ることにより、少しでも上手に文章が書けるようになるとよいと思って読んだ。
下手な文章の類例を知ることができること、書き方の技術的なところでなく、文章の中に書き手の意識や思考を見抜く視点に関心した。

ちなみに、文章を書く上で、注意することは以下のとおり。

・文章を書く際には、「何を伝えたいか」が一番大切である。
・文章を書く際には、具体と抽象を考え、不足を補いながら考える。
・「確かに・・・。しかし・・・」のパターンで表現することを心がける。
・何に反対しているかを考える。途中で論点を見失ってしまうことのないように。
・主張を把握し、その根拠を整理しておく

 

文章を書く際に、以下の思考に陥っていないか、技術的な書き方でなく、意識・思考について振り返ってみるのが上達方法になる。

 

文章にある、ある種の思考
・抽象化するのが苦手なタイプの人がいる
・具体的な事柄を余計なことと感じているタイプもいる
・具体的な出来事を言葉を用いて描くことができない人がいる
・客観的な視野に欠け、思い込みが激しい人間であるかも
・論理的な思考ではなく、曖昧で、自分本位であるかも
・反対している意見がすり替わってしまう人は、一貫して論理を明確にできず、的外れに思考するタイプ
・意図的に論点をすり替えたりごまかしたりしようとするタイプ
・意見の根拠が書かれていない人は、反対意見を持つ人がいることを理解できない
・自分の善悪等の価値観以外の価値観ががあると思っていない
・自分の都合のよいことしか書こうとしない人
・その人の心の迷いや何らかの配慮のため
・数人で書いた文章で、継ぎ足しになったため


具体例が抽象的な内容と異なっている人は、あまり知的ではない。
・具体的な体験がないため
・具体的な体験はあるのにそれを認識していないために、思いつかないため
・具体的体験にひきずられてしまうため

 

文章を書いた際の振り返りにこのような観点から見直しをしようと思った。

読書案内:オードリー・タン 天才IT相7つの顔

 IT業界のもののとらえ方のなかに、現代のコミュニティの在り方をどのように考えるかのヒントがあるように感じられた。
「問題解決の方法は1つじゃない。」
「いかなる議論の場でも、我々は王も大統領も投票も認めない。我々が信じるのは、ざっくりとした合意と、動いているコードだけだ。」ざっくりとした合意とは、「満足ではないにせよ、みんなが受け入れられる」こと、討論して各人が受け入れ可能な結果を出すこと。
こうした表現のなかに、これまでの一つの価値観とか、世の中のルールの多様性を認める姿を感じ、とても感動した。

 

 難度の高い共同作業を行うためには技術的な工夫が必要である。そのために行うのが、短時間のミーティング。
スタンディングミーティングでは、昨日は何をしたか、今日は何をするか、今はどんなトラブルに遭遇しているかを報告する。

 

 ある集合体のなかで以下のような手順で継続的に練習し、メンバー一人ひとりが協力して検討し、共に思考する習慣を身につけることができれば、最終的に得られる答えは、権力を使ったものではなく、すべての人の共通認識から生まれたものとなる。
1.批判的思考(Critical thinking):なぜ自分がこう考えるのか、なぜ他人がそう考えるのかとその理由を考える。
2.ケア的思考(Care thinking):討論の際に他人がどう感じるかに配慮する。
3.創造的思考(creative thinking):もっと独創的な考えができるかどうかに踏み込み、自分らしいものを生み出す。

 成熟したインターネットユーザーは、情報を受け取りすぎず、コンテンツを作り出せなくてはならない。アップロードとダウウンロードのバランスと頻度を保つことが重要である。情報の受け取りすぎはよくない。「クリエイティブであれ!」
「こうありたいという未来を見定めたら、まず自分をこうなりたい自分に変える!」
私には、とても新しい文化や発想で、自分の行動の中に入れたいと思った。

読書案内:人新世の「資本論」


 エコ、SDGs、グリーン経済など、環境を重視した言葉が使われていても、経済成長を志向した資本主義は、環境を壊し、しいては、人の暮らしを豊かにするのではなく、貧困にさせる仕組みを持っているかもしれないということをこの本から知った。


 昔、環境破壊という言葉と、マルクスを一緒に議論することはなかったように思う。労働を搾取されるという表現はあったが、時間や思考を労働に奪われる(搾り取られる)と思っていた。海、水、空気を壊して、知らないうちに見えない貧困者に負荷を押し付けるという構図があることを強く意識しなかった。現代は、奪われるのではなく、押し付けられる。よくよく考えてみれば、原子力のゴミは昔も弱いところに押し付けていたので、このようなことはなんとなく、知らなかった訳ではないか。搾取というより、押し付けといった言葉の方が適切なのかしらん。

 

 脱成長、自分が提供するサービスの質の低下に異議申し立てを行うこと、学校ストライキ有機農業、環境NGOで活動する、企業に厳しい環境対策を求めること、資本主義と気候変動問題にコミットメントすることが新しい「資本論」の読み方であり、これからの新しい資本主義(?)のようだ。

映画「きっとうまくいく」

純粋に真理を知りたいという気持ちで、自由な心で取り組めば、成功は勝手についてくる。とても気持ちよい作品でした。
学問を、成績のため、就職、学位のために使うことって、つまんないと思わされた。
学問の形式にとらわれて、本当に探究することってなんなのか、新しいことを知るときの喜びを感じられる(それって、結局どんなこと、なんなの、私たちにどう役にたつの?)。きっと喜びは、知ることにより、自分が変われることだと思う。
すべてうまくいく(All is well.)という言葉に、底抜けの明るさと希望を感じた。
いくつか人助けの内容があった、先輩の自殺、友人の親の病気、友人のけが、先生の出産。技術を伴うものもあったが、「人を優先する」ことが大切だと、底辺に流れる思想がよい。
上っ面の優等生は、内容も分からぬまま、ただ原稿を読み上げる。
物の価値や値段、形式の上に立つことでの満足してしまう。
自分も上っ面だけで終わることのないようになりたいと思った。

 

読書案内:子育ての哲学:主体的に生きる力を育む

子どもが自分の力で考え、判断し、その判断も、一瞬の感情からではなく、普遍的にそうあるべきという思慮を持って、吟味できるような判断ができるのであれば、ある種、子どもは幸せに生きていけれるのでないかと思う。

そのためには、子どもを導く意識が必要だ。親が子供感情を受けとめていても、子どもは、自分がしたい、感じている気持ちを自分でとらえられていないことがある。親でも、普遍的にそうあるべきという視点で物事を考える習慣を持っていない親がいる。

同じことを書いてしまうが、ハイデガーによると、「人間は自分の感情に気付くことで、自分がどうしたいのか、どうすべきなのかを判断し、納得した行動をとることができる」。普段、私たちは自分の感情に応じて行動を起こすが、その感情に無自覚であるほど衝動的に行動してしまう。

普段の気持ち、過度に場の空気を読み、周囲の人々に同調し続けて疲れてしまう。周囲の人々に対して、自分は間違っていないと正当化する自己中心的な気持ちになってしまう。「子育てをしなければならない」という義務感と「子育てとは別のことがしたい」という二つの欲望を持ってしまう。そういった気持ちになったとき、「一般的他者の視点」で吟味を加えられたら、日常の葛藤を克服できるかもしれない。

子どもだけでなく、親も成長しなくてはならない。

読書案内:言葉のトリセツ

言葉の語感について、音声を出した後、自分や相手に及ぼす効果について考察している。

言葉の語感以外にも、感性の領域には、理屈や数値で表すことができないもの、イメージや感覚などあるので、語感がすべてではない。

・「でも」「だって」「どうせ」のD音を自分のために使う場合、自分のみならず、周囲の人の意欲にもブレーキをかける。「大丈夫」「でもね」相手のために使うD音もあり、相手を落ち着かせる力を持つ。

・「やれやれ」「やっと」「ようやく」「ゆっくり」ヤ行の音は優しいだけなく、深い思いを伝える音韻である。

・訓読みは母音が多用され、情を伝えやすい言葉となり、漢語は子音が多く理、私情を挟まない言葉となる。相槌にアイウエオを入れると、親密感が増す。

・語感は、発音体感がもたらす脳のイメージであり、言葉の感性の核となるものだ。その体感は、最初に母の胎内で、母の発音体感に同調するようにして獲得するのである。

読書案内:アンガー・マネジメント-アメリカ・エグゼクティブの間で爆発的に普及! イライラ、ムカムカを一瞬で変える技術

自分のなかの怒りを受け止め、その怒りを目的達成に活かすことが、アンガーマネジメントである。怒りを感じたときこそ、その「目的」を思いだし、「怒り」をマネジメントする。

私が面白いと感じたところは、「私たちはいつも同じようなことで怒ってしまう」ことが多いという内容の部分、自分のアンガーログを取って、怒ってしまうトリガーになるものに気付くのがよいそうです。

相手が故意か無意識かわからないが、相手のアクションに怒りを感じてしまうときには、「相手の不満にあわせて」あげる。自分の認識を変えて、目に見える行動を一つだけでも変えることでブレイクパターンを見つける。

自分が困っている、問題を抱えている、苦しんでいる、悲しんでいる、怒っているはずなのに、主語は”私”ではない。責められる側にしてみれば、たまったものではない。主語を「私」にすると思いが伝わります。

アサーティブな表現についても言及がありました。

怒りにどう対処してよいのか、いまだ道半ばであります。